理念
安川電機陸上部は、創部以来「草魂 ―ただひたむきに―」をチームモットーとしています。
「過去の実績や栄光におごることなく、また、失敗や挫折を恐れることなく、常にチャレンジ 精神を忘れず真摯に競技に向き合おう」という誓いの気持ちをこの言葉に込めています。
概要
正式名称 | 安川電機陸上部 |
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所在地 | 〒806-0004 北九州市八幡西区黒崎城石2番1号 |
創部 | 1974年 |
部長 | 林田 歩 |
部長挨拶
日ごろより、安川電機陸上部への温かいご声援ありがとうございます。
安川電機陸上部は、チーム理念である「走魂-ただひたむきに-」をモットーとして、選手一人ひとりの強化を図りながら、チームの最大目標である全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)の優勝を目指し、日々練習に励んでいます。
また、個人競技においてもオリンピックや世界選手権等のグローバルで活躍できる選手の育成に注力しています。安川グループのキャッチコピーである「原動力は北九州、動かすのは世界」をスポーツで体現し、安川グループのブランド力強化を担うべく、日々研鑽を重ねています。
2023年度は新たに就任した中本 健太郎監督の指揮のもと、トラック、ロード共に好成績を収めました。ニューイヤー駅伝では8位入賞とはならなかったものの、アクシデントによって不出場となった前回の悔しさを晴らす12位と奮闘し、今後更なるチームの成長を予感する結果でした。
また、パリオリンピックマラソン日本代表内定を賭けてMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)シリーズに古賀淳紫選手が出場しました。当社から3人目となるマラソン日本代表選手輩出という目標を達成することは出来ませんでしたが、古賀選手自身にとってかけがえのない経験になりました。
安川電機陸上部は、2024年4月で創部50年(1974年創部)を迎えました。50年という節目の年を迎えることができましたのも、ひとえに応援していただいた皆さまのおかげです。創部半世紀という 歴史の重みを受け止め、その歩みを紐解き、振り返りながら、更なる飛躍と発展に向けて精進してまいります。引き続きご支援、ご声援をよろしくお願いいたします。
ユニフォーム
当社のコーポレートカラー『YASKAWA BLUE』を基調に、『グリーン』を配色し明るく爽やかな印象に仕上がっています。
(着用年:2022年)
沿革
2021~2022
「変革」新時代へ向けて
2021年3月、チームを長らく牽引した中本が引退し、若手の台頭が求められた。若手の成長が課題となる中、エースの古賀が奮闘し、チームを引っ張る。11月に行われた記録会で、安川電機初10000m27分台(27分51秒64)の安川新記録を樹立。全日本実業団駅伝ではエースが集う4区で、区間2位ながら区間新の好記録で襷をつないだ。しかし、チームは順位を落とし25位に沈んだ。厳しい結果を目の当たりにし、チーム全体を底上げする必要があることを思い知らされることとなった。
個人では、古賀が2022年別府大分毎日マラソンに挑戦。初マラソンながら35キロ過ぎに先頭集団から果敢に飛び出し、優勝争いを繰り広げた。結果は2時間8分30秒で4位となったが、中本が持っていた安川記録(2時間8分35秒)を更新し、MGC(パリ五輪選考会)の出場権も獲得した。
2022年度を迎えても、春のトラックシーズンではチーム全体で思うような結果を出すことができず苦戦が続く。また、リベンジを目標に掲げていた全日本実業団駅伝では、新型コロナウィルス感染のため棄権を余儀なくされ厳しい状況が続いた。
このような中、リオデジャネイロ五輪に出場し、中本、黒木らとともに近年のチームを支えた北島が引退を表明。また、現役・監督として長くチームの歴史を築き上げてきた山頭が副部長に就任、新監督にはヘッドコーチの中本が就任することが決まった。
新体制となり、安川電機陸上部のDNAである「草魂(ひたむきさ)」と、世界トップアスリートとの勝負を幾度も繰り広げた中本の経験と闘志が継承され、安川電機陸上部は新時代へと動き出す。
2019~2020
東京五輪挑戦、そして受け継がれる「草魂」
2019年、大塚丈徳が率いる新体制となり、9月に行われた東京オリンピック2020のマラソン日本代表選考レース「MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)」に中本が出場。レース中盤、集団から離されるも33K過ぎに第2集団の先頭に立ち、持ち前の粘り強さで存在感を示した。惜しくも代表獲得とはならなかったが、8位入賞(2時間12分46秒)でフィニッシュした。
また成長著しい古賀が「全日本実業団ハーフマラソン」で、日本歴代7位の好記録(1時間00分49秒)で日本人トップの2位入賞を果たし、同レース出場の高橋とともに従来の安川最高記録(1時間01分49秒)を更新。古賀はこの年の世界ハーフマラソンの日本代表に選出される。
2020年、世界中を混乱の渦に巻き込んだコロナウイルス感染症が発生。この年は多くの競技会が中止され、東京オリンピック2020の延期も決定。大会が行われない中でも選手はひたむきにトレーニングを続け、ニューイヤー駅伝に31年連続出場。結果は16位と振るわなかったが、改めて競技が行われることに感謝し、それを再認識した大会となった。またこの駅伝をもって、チームを長らく牽引してきた中本が現役引退。先代より受け継がれてきた精神「草魂」は後輩へと受け継がれていく。
2017~2018
新たに起動 目指すその先
2017年、新たに中山裕二が陸上部長に就任。安川電機陸上部では初めてとなる短距離種目を専門とする大瀨戸が入部し、チームの更なる飛躍が期待される。
自身3度目となる男子マラソン日本代表として出場した「世界陸上競技選手権大会(ロンドン)」で、中本が粘りの走りで奮闘。 2時間12分41秒の10位でフィニッシュした。
2018年には、東京オリンピック2020でのマラソン日本代表を選考する新しい仕組み、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)シリーズが開催。MGCシリーズの国内大会の一つである、北海道マラソン2018に出場した中本は2時間14分54秒で5位入賞を果たし、MGC出場権を獲得した。
ニューイヤー駅伝では2018年9位、2019年11位と入賞は逃すも、若手中心で挑んだ2019年大会、7区出走の古賀が創部以来初となる区間賞を獲得する走りをみせ、世代交代の兆しがみられる大会となった。
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2016
ロンドンからリオ、そして…
前回のロンドンオリンピックでの中本に続き、北島がリオデジャネイロオリンピック男子マラソン日本代表に選出されたことは陸上部として2大会連続で代表選手を輩出するという快挙達成となった。リオデジャネイロでは日本から駆けつけた従業員はじめ、現地グループ会社スタッフが大応援団を結成。沿道から大きな声援を送った。調整過程で痛めた怪我の影響もありスタートから北島は苦しいレースとなったが、94位でのフィニッシュとなった。
また、ニューイヤー駅伝では27年連続で39回目の出場を果たす。入社1、2年目の若手選手たちの活躍もあり12位でのフィニッシュとなった。
そして2017年2月5日に開催された「別府大分毎日マラソン」でマラソン14回目の挑戦にして初優勝を勝ち取った中本が、2011年テグ大会(韓国)2013年モスクワ大会(露)に続き3度目となる世界陸上男子マラソン日本代表に内定となった。
2012~15
初五輪代表、そして広がる波及効果
2012年度、創部38年にして初となる五輪代表選手が誕生。世界陸上(テグ)で健闘し、その後も安定した走りを続けてきた中本がロンドンオリンピック男子マラソン日本代表に選出。創部当初からの目標であり念願であったオリンピック日本代表選手を輩出したことは、安川電機史上での大きな一歩となった。この年就任した陸上部長 生山武史率いる安川大応援団の熱い声援を受けて中本は堂々の6位入賞を果たす。また「福岡国際マラソン」に出場した黒木が2時間10分08秒の好タイムで5位入賞。 2013年度は、中本が2大会連続で出場を果たした世界陸上(モスクワ)男子マラソンでは5位入賞の快挙。一方、ニューイヤー駅伝では故障者が続出し、2012年度11位、2013年度28位、2014年度24位と低迷し苦しい状況が続いた。 2015年度は安川電機創立100周年という節目で記念すべき1年となり、ニューイヤー駅伝は復刻ユニフォームで出場。選手たちは不振からの脱却を誓い、新人佐護、古賀を起用した思い切ったオーダーで挑む。1区久保田、2区M・ヌグゼが好位置で発進、3区佐護は前の集団に食らいつき入賞圏内をキープしたまま後半区間へ。4区北島、5区中本、6区古賀が粘りの走りをみせ8位で襷をつなぐと、7区黒木が後方の選手を振り切り、4年ぶり9回目の入賞を果たした。また、初マラソンとなった「延岡西日本マラソン」を優勝、続く「シドニーマラソン(豪)」も優勝、マラソン2戦2勝の北島がリオデジャネイロオリンピックマラソン選考会の「びわ湖毎日マラソン」に挑み、2時間09分16秒の堂々2位入賞で、リオデジャネイロオリンピック男子マラソン日本代表に選出となった。
2011
YASKAWA新時代の幕開け
この年陸上部長に就任した清水伸悟のもと若手の台頭が目立った。チーム1のスピードランナー北島が10000mチーム最高記録を18年ぶりに更新。また「世界陸上競技選手権大会(韓国/テグ)」の男子マラソン日本代表として選出された中本は、9月に行われたレースで持ち前の粘りを発揮し堂々10位の好成績を残した。
駅伝では前年4位となった同メンバーで挑んで6位入賞、チームとして3度目の連続入賞を果たした。
2009~10
YASKAWAから、マラソン日本代表が誕生
更なる強化を図るため樋口善久が新たに陸上部長に就任。09年度の「全日本実業団駅伝」では過去ワースト2となる27位と低迷するなかでも、次世代を担う若手がしっかりと成長。リベンジとして絶好の機会となった翌10年度の「全日本実業団駅伝」では、1区中野、2区A・デスタが好位置でつなぐと、3区北島が区間2位の快走でチームを2位に押し上げ、4区中本、5区黒木が安定感のある走りでトップと1秒差の2位で6区小畑に襷をつなぐ。小畑は区間3位の好走で創部以来初めてとなる第6中継所をトップで通過。4チームが30秒以内という大混戦となったが、7区飛松が力走し4位でのフィニッシュとなった。 また、2010年3月に開催された「世界陸上競技選手権大会(韓国/テグ)」の日本代表選手選考会となった「びわ湖毎日マラソン」では、4位入賞を果たした中本が自身・チームともに初のサブテンとなる2時間9分31秒をマークし「世界陸上競技選手権大会」のマラソン日本代表として選ばれた。
2008
着実に力をつけてきた若手選手の活躍に期待
2年連続で「全日本実業団駅伝」入賞を果たし駅伝での強さを発揮するなか、新たに就任した山頭監督のもとこれまで後手にまわっていたマラソン選手の育成・強化に着手。この年の「北海道マラソン」で中本が堂々の2位入賞を果たします。 一方駅伝では、在籍していた外国人選手の退部により日本人選手のみの区間編成で挑み「九州実業団毎日駅伝」こそ、実力どおりのレース運びで優勝を競う内容だったが「全日本実業団駅伝」ではチームの良さが全く発揮できず18位で惨敗。しかしながら随所では若手選手の確かな成長を感じられた年となった。
2004~07
黄金期の再来を信じ、ひたむきに走る
創部30年目の節目となる04年度は『リベンジ』をスローガンにチーム一丸となって、汚名を返上するべく駅伝に取り組みました。そして迎えた「九州実業団毎日駅伝」では、最終区まで旭化成と大接戦を演じ、念願の初優勝までわずか17秒差の2位。「全日本実業団駅伝」では11位と復活への確かな手応えを得ました。 05年度は黄金期の復活に向けたさらなる飛躍を誓い、陸上部長が宇佐見昇へと引き継がれ、当時コマツ電子金属でコーチをしていたOB山頭直樹をヘッドコーチとして招聘する新体制となりました。 そして06年度、創部32年目にしてついに念願の「九州実業団毎日駅伝」で優勝! 自らを信じ仲間を信じてタスキをつなぎ走りきった選手たち、みなぎる自信と誇りを手にしました。 この年の「全日本実業団駅伝」では7位入賞、翌07年には4位入賞を果たし、黄金期の再来は、予感から実感へと向かいつつありました。
1998~03
過去最悪の結果にリベンジを誓う
98年度、陸上部発足より23年間、副部長・部長を歴任してきた興膳克彦に代わり、当時副部長であった鈴木勝詔が陸上部長に就任。チームの再建を一手に背負いました。 チームの顔ぶれも様変わりし、若手選手にシフトしていくなか、苦しみながらも何とか「全日本実業団駅伝」の出場を果たすものの、本大会では20位前後の順位から浮上することができませんでした。 そんななか01年度と02年度、2年連続で「九州実業団毎日駅伝」準優勝と復活の兆しがみられたかに思えましたが、03年度の「全日本実業団駅伝」では31位と過去最悪の結果に終わってしまいました。
1993~97
新勢力が次々と台頭する九州陸上長距離界
93〜95年度にかけて、「全日本実業団駅伝」8位、7位、6位と安定して入賞を果たしてきましたが、このころ九州の陸上長距離界は様変わりしようとしていました。 95年度に強豪ダイエーが本拠地を福岡に移転し大がかりなチーム強化に乗り出し、三菱重工長崎、コマツ電子金属など新興チームが次々と台頭。当社チームも原口、依田、山頭の活躍により安定した成績は残していたものの、常勝旭化成を追うには、次世代の柱となる選手の出現が望まれていました。 若手の大胆な登用など、積極的な強化策も結果を残すことはできず、96年度の「全日本実業団駅伝」13位、97年度18位、98年度19位と低迷を続けました。
1985~92
井上監督新体制、苦難のスタート
85年度、井上文男が監督として就任。しかし新体制は苦難の船出となりました。この年の「九州実業団毎日駅伝」でまさかの8位。それまで9年連続出場を果たしていた「全日本実業団駅伝」の出場権を逃してしまいました。その後86〜88年度までの間、「全日本実業団駅伝」に出場はするも20位台に定着することとなりました。 この間、現監督の山頭直樹が入部。彼をはじめとした若手が順調な成長をみせ始めた89年度の「九州実業団毎日駅伝」で井上監督は若手を中心にしたメンバーで賭に出ますが、結果は8位。またしても全日本への道を絶たれてしまいました。 しかしトンネルの出口はすぐそこにありました。安川電機創立75周年を迎えた90年度「九州実業団毎日駅伝」で初の2位入賞。この勢いをそのままに、元日に開催された「全日本実業団駅伝」では3位入賞という快挙を成し遂げました。
1979~80
不況下にもかかわらず、温かい支援に奮起
不況下にあっても全社を挙げての温かい支援のなか、若手選手も順調に力を伸ばし「全日本実業団駅伝」にも安定して出場を果たすことで、旭化成、九州電工に次ぐ九州第三のチームとしての基盤を築きました。
1975~78
創部5年目にして、全国7位の快挙
当時の九州陸上長距離界は、旭化成、新日鐵八幡、そして九州電工(現・九電工)の三強時代。これらの強豪に追いつくことを目標に、井上文男(前監督)をはじめ有望な選手を獲得。そして迎えた1976年度、創部3年目にして念願の「全日本実業団駅伝」初出場を果たしました。1区では井上がトップに1秒差の2位でタスキをつなぐ力走をみせ、応援団は大熱狂。初めての挑戦を総合19位という結果で終えました。78年は3回目のチャレンジにして7位入賞を果たしました。
1974
無名の社員選手だけのスタート
この年、安川電機陸上部創立、初代部長に陸上部の生みの親である、柴田幸司、初代監督に小野実男が就任。設立当初は有力な高校や大学から選手を獲得することも厳しく、社内より選手を募るという苦難の船出でした。しかし駅伝初チャレンジとなった「第22回・日田〜中津駅伝競走大会」では24チーム中11位と健闘しました。
主な実績
駅伝
全日本実業団対抗駅伝
- 1976年 初出場
- 1992年 3位
- 2008年 4位
- 2011年 4位
(入賞 計9回)
九州実業団毎日駅伝
- 2006年 初優勝
- 2011年 優勝
(優勝 計2回)
個人
オリンピック・世界選手権日本代表
- 2011年 世界陸上競技選手権大会(韓国/テグ)男子マラソン 9位(中本)
- 2012年 ロンドンオリンピック 男子マラソン 6位(中本)
- 2013年 世界陸上競技選手権大会(ロシア/モスクワ)男子マラソン 5位(中本)
- 2016年 リオデジャネイロオリンピック 男子マラソン 94位(北島)
- 2017年 世界陸上競技選手権大会(イギリス/ロンドン)男子マラソン 10位(中本)
安川歴代記録
1500m
※2024年3月31日現在
5000m
※2024年3月31日現在
10000m
※2024年3月31日現在
ハーフマラソン
※2024年3月31日現在
マラソン
※2024年3月31日現在
ニューイヤー駅伝歴代記録
2024年
総合順位 12位
総合タイム 4時間55分20秒
区間 | 氏名 |
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1区 | 岡田 浩平 |
2区 | 古賀 淳紫 |
3区 | 漆畑 瑠人 |
4区 | マゴマベヌエルモゲニ |
5区 | 合田 椋 |
6区 | 大畑 和真 |
7区 | 鈴木 創士 |
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2023年
欠場により順位なし
2022年
総合順位 25位
総合タイム 5時間00分14秒
2021年
総合順位 16位
総合タイム 4時間55分36秒
2019年
総合順位 11位
総合タイム 4時間55分22秒
2018年
総合順位 9位
総合タイム 4時間59分15秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 古賀 淳紫 |
2区 | アッバイナ デグ |
3区 | 佐護 啓輔 |
4区 | 高橋 尚弥 |
5区 | 中本 健太郎 |
6区 | 黒木 文太 |
7区 | 久保田 大貴 |
2017年
総合順位 12位
総合タイム 4時間55分34秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 古賀 淳紫 |
2区 | マミヨ ヌグセ |
3区 | 佐護 啓輔 |
4区 | 中本 健太郎 |
5区 | 高橋 尚弥 |
6区 | 黒木 文太 |
7区 | 久保田 大貴 |
2016年
総合順位 8位
総合タイム 4時間56分33秒
2015年
総合順位 18位
総合タイム 5時間01分50秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 久保田 大貴 |
2区 | 松山 雄太朗 |
3区 | 北島 寿典 |
4区 | 中本 健太郎 |
5区 | 黒木 文太 |
6区 | 小畑 昌之 |
7区 | 平山 竜成 |
2013年
総合順位 11位
総合タイム 4時間56分26秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 黒木 文太 |
2区 | アレム デスタ |
3区 | 北島 寿典 |
4区 | 中本 健太郎 |
5区 | 久保田 大貴 |
6区 | 飛松 誠 |
7区 | 小畑 昌之 |
2010年
総合順位 27位
総合タイム 4時間58分53秒
区間 | 氏名 |
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1区 | 中野 良平 |
2区 | 小畑 昌之 |
3区 | 黒木 文太 |
4区 | 平野 護 |
5区 | 立石 慎士 |
6区 | 中本 健太郎 |
7区 | 飛松 誠 |
2009年
総合順位 18位
総合タイム 4時間58分43秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 黒木 文太 |
3区 | 平野 護 |
4区 | 飛松 誠 |
5区 | 立石 慎士 |
6区 | 中本 健太郎 |
7区 | 岡田 徹 |
2007年
総合順位 7位
総合タイム 4時間49分50秒
区間 | 氏名 |
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1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 飛松 誠 |
3区 | ウイリー キムタイ |
4区 | 坂本 友和 |
5区 | 立石 慎士 |
6区 | 岡田 徹 |
7区 | 下森 直 |
2006年
総合順位 21位
総合タイム 4時間51分57秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 飛松 誠 |
2区 | 小畑 昌之 |
3区 | 坂本 友和 |
4区 | 中本 健太郎 |
5区 | 下森 直 |
6区 | 樋山 和弥 |
7区 | 立石 慎士 |
2005年
総合順位 11位
総合タイム 4時間54分40秒
区間 | 氏名 |
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1区 | アブドーラ バイ |
2区 | 下森 直 |
3区 | 小畑 昌之 |
4区 | 福地 宏行 |
5区 | 飛松 誠 |
6区 | 立石 慎士 |
7区 | 坂本 友和 |
2004年
総合順位 31位
総合タイム 5時間00分58秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 下森 直 |
3区 | 坂本 友和 |
4区 | 岡田 徹 |
5区 | 立石 慎士 |
6区 | アファダス モハメド |
7区 | 飛松 誠 |
2003年
総合順位 17位
総合タイム 4時間53分58秒
区間 | 氏名 |
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1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 下森 直 |
3区 | 松永 伸彦 |
4区 | 樋山 和弥 |
5区 | 糸山 二朗 |
6区 | アファダス モハメド |
7区 | 岡田 徹 |
2002年
総合順位 13位
総合タイム 4時間53分50秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 糸山 二朗 |
3区 | アジス ドリウッチ |
4区 | 坂本 友和 |
5区 | 下森 直 |
6区 | 樋山 和弥 |
7区 | 原口 順司 |
2001年
総合順位 26位
総合タイム 5時間05分10秒
※全長100kコースに変更
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 小畑 昌之 |
2区 | 坂本 友和 |
3区 | 村瀬 恵太郎 |
4区 | 松永 伸彦 |
5区 | 下森 直 |
6区 | 井上 礼二 |
7区 | 原口 順司 |
2000年
総合順位 24位
総合タイム 4時間23分55秒
区間 | 氏名 |
---|---|
1区 | 斉宮 廣信 |
2区 | 坂本 友和 |
3区 | 松永 伸彦 |
4区 | 糸山 二朗 |
5区 | 小畑 昌之 |
6区 | 樋山 和弥 |
7区 | 樋口 一隆 |